染井の長池を水源の一つとし、西ヶ原、中里、田端、谷中、根津を流れて不忍池へ注いでいた谷田川(藍染川)。現在はほぼ全区間が暗渠となっています。文京区によれば、氾濫を繰り返したことから1921年に暗渠工事が始まり、現在では「へび道」などにかつての川筋を見ることができます。(文京区)

しかし、川が消えても、その記憶まで消えたわけではありません。

商店街、橋、野菜の洗い場、リボン工場、蛍の名所、染物屋、文学作品、地名、そして現在の下水道まで――。今回は一つの旧流路を「正解」と断定するのではなく、現地で確認できる場所をつなぎながら谷田川(藍染川)を歩きます。


目次
  1. 第1章 谷田川はどこから始まった?|染井の水源を探す
    1. 染井霊園・長池跡|谷田川の水源域からスタート
    2. 慈眼寺|「不染橋」の親柱が残る
    3. 寄り道コラム|下瀬坂にもあった谷田川の水源
    4. 勝林寺から法成寺へ|寺院の間を通って染井銀座へ
  2. 第2章 染井銀座・霜降銀座を歩く|谷田川跡と区境をたどって中里へ
    1. 染井銀座から霜降銀座へ|暗渠の上に続く商店街
    2. 霜降橋交差点から区境へ|資料で異なるさつき通り周辺の旧流路
    3. 中里用水ガード|ガード下の構造物
    4. コラム|谷田川は街の境界にもなった
    5. コラム|駒込さつき通り、本当にここが川だったのか?
  3. 第3章 田端の街を歩く|野菜の洗い場と移設された谷田橋
    1. 田端へ|田端不動尊と文化人たちの記憶
    2. 「谷田川通り」と田端水神稲荷神社
    3. 谷田橋交差点から寄り道|田端八幡神社へ
    4. 区境を越えて谷中よみせ通りへ
    5. コラム|田端水神稲荷と野菜の洗い場
    6. 寄り道|田端八幡神社に移された谷田橋
  4. 第4章 谷中よみせ通りを歩く|暗渠上の商店街とリボン工場跡
    1. よみせ通りと延命地蔵尊|暗渠上の商店街
    2. 寄り道|谷中銀座商店街
    3. 国産リボン発祥の地|川沿いの近代産業
    4. 柳通りとの交差点|枇杷橋跡と蛇行する流路
    5. コラム|枇杷橋にはいくつもの名前があった?
  5. 第5章 「蛍沢」の痕跡をたどる|六阿弥陀通りから蛍坂へ
    1. 六阿弥陀通りから「蛍沢」へ|ポケットパークの案内板
    2. 長明寺から宗林寺へ|現在も残る「蛍沢」の名
    3. 岡倉天心記念公園から蛍坂へ|中坂という別名
    4. コラム|藍染川は「蜆川」「蛍川」とも呼ばれた
  6. 第6章 『三四郎』と『雁』の舞台を歩く|団子坂から不忍池へ
    1. 『三四郎』|団子坂の菊人形と石橋
    2. 『雁』|無縁坂から不忍池の北側へ
    3. コラム|文学の中の藍染川
  7. 第7章 「へび道」を歩く|藍染町と染物文化の痕跡
    1. 枇杷橋跡から「へび道」へ|法住寺跡と妙林寺跡
    2. 寄り道|藍染大通りと「旧 根津藍染町」
    3. 本線へ戻る|根津丁子屋と川の利用
    4. 言問通りを越えて|移り変わる区境
    5. コラム|藍染大通りに残る「藍染町」
  8. 第8章 忍川の痕跡と三橋遺構|不忍池と辯天堂へ
    1. 旧流路から鵜の池へ
    2. 花見橋・中橋跡と横山大観旧宅
    3. 雪見橋と龍門橋|橋名を伝える石碑
    4. 上野広小路遺跡三橋遺構|発掘された忍川
    5. 終点|不忍池辯天堂と大黒堂
    6. コラム|藍染川は本当に不忍池へ流れ込んだのか
  9. 第9章 地下に残る水の道|下水道幹線と水再生センター
    1. 谷田川幹線の地上ルートと地下
    2. 第二谷田川幹線の接続
    3. 五人堀と真島町幹線
    4. 藍染川幹線から三河島水再生センターへ
    5. コラム:現在の下水道施設に残る「谷田川」「藍染川」の名称
  10. エピローグ 水の旅は不忍池で終わらなかった
    1. 忍川の痕跡|上野三橋町からガード下へ
    2. 姿を変える水路|大名屋敷と西町太郎稲荷神社
    3. 堀と水運|三味線堀と佐竹家上屋敷
    4. 旧鳥越川を追う|甚内神社と甚内橋遺跡
    5. 水の旅の終着点|隅田川と東京スカイツリー

第1章 谷田川はどこから始まった?|染井の水源を探す

染井霊園・長池跡|谷田川の水源域からスタート

谷田川・藍染川をたどる散歩は、染井霊園から始めます。染井霊園は明治7年(1874年)に東京府が引き継いで開設した霊園で、幕末から明治にかけて活躍した大名や学者など、多くの人物が眠っています。

巣鴨門から園内に入り、高村光太郎・智恵子・光雲の墓所を通って、長池跡へ向かいます。

染井霊園の案内図では、かつて巣鴨御薬園に沿った一段低い場所に長池があり、そこから谷戸川(藍染川)が流れ出て、霜降橋、谷中を経て不忍池へ注いでいたと説明されています。

現地の「長池跡(谷戸川源流)」案内板を見ると、案内板下のくぼ地一帯が長池跡と思われると記されています。実際に見ると、墓地の中に一段低くなった窪地があります。

「長池跡(谷戸川源流)」の案内板があります。
「長池跡(谷戸川源流)」の案内板があります。
案内板付近から、周囲より一段低くなっている長池跡の窪地を確認できます。
案内板付近から、周囲より一段低くなっている長池跡の窪地を確認できます。

長池跡から園内を進み、低い位置の道へ下りて園外へ。霊園の外周を歩くと、フェンスの向こうには、案内図で「谷戸川土手」と記された一帯が続いています。ただし、現在見えている地形のどこまでが当時の土手そのものなのかは、現地だけでは判断できません。

そのまま染井霊園の外周に沿って進みます。右手のフェンス越しには、案内図で「谷戸川土手」と記されている園内部分が続きます。
そのまま染井霊園の外周に沿って進みます。右手のフェンス越しには、案内図で「谷戸川土手」と記されている園内部分が続きます。

慈眼寺|「不染橋」の親柱が残る

染井霊園の外周を進むと慈眼寺に着きます。染井霊園の案内図では、慈眼寺には芥川龍之介、谷崎潤一郎、司馬江漢らの墓が紹介されています。

左手に慈眼寺の参道・入口を見ながら進みます。
左手に慈眼寺の参道・入口を見ながら進みます。

ここで谷田川散歩として見ておきたいのが、「不染橋」と刻まれた親柱です。川そのものはもう見えませんが、現地で橋の名を確認できる場所です。

慈眼寺付近で、谷田川に架かっていたとされる不染橋の親柱

寄り道コラム|下瀬坂にもあった谷田川の水源

勝林寺の手前で下瀬坂へ寄り道すると、一つの案内柱があります。この案内柱には、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もあったと記されています。

下瀬坂の案内柱で「谷田川の水源となる湧水もありました」
下瀬坂の案内柱で「谷田川の水源となる湧水もありました」

勝林寺から法成寺へ|寺院の間を通って染井銀座へ

慈眼寺をあとにし、染井霊園や寺院・墓地の外周に沿って勝林寺へ向かいます。谷田川をたどった資料では、長池から慈眼寺、勝林寺あたりを経て霜降銀座へ下っていたとされています。

勝林寺には田沼意次の墓があります。寺は明治40年(1907年)に墓地を染井へ移し、昭和15年(1940年)には寺そのものも現在地へ移りました。

右手に勝林寺の山門があります。山門を見ながら、そのまま道を進みます。
右手に勝林寺の山門があります。山門を見ながら、そのまま道を進みます。

さらに進むと法成寺があります。法成寺は慶長15年(1610年)の創建で、浅草などを経て昭和18年(1943年)に現在の駒込染井へ移転しています。

法成寺の山門前を通り、さらに道なりに左へカーブします。
法成寺の山門前を通り、さらに道なりに左へカーブします。

豊島区関連資料の「江戸の桜の川下り 谷田川・藍染川下りルート」でも、法成寺付近を通って染井銀座へ向かう散策ルートが示されています。細かな道筋は資料によって異なり、現在は宅地となって歩けない場所もあります。今回は現在歩くことのできる公道を通って、染井銀座へ向かいます。

染井銀座に到着です。
染井銀座に到着です。

第2章 染井銀座・霜降銀座を歩く|谷田川跡と区境をたどって中里へ

染井銀座から霜降銀座へ|暗渠の上に続く商店街

第1章の終点となった染井銀座商店街から、そのまま商店街を進みます。途中で豊島区側の染井銀座から、北区側の霜降銀座へと商店街が続きます。霜降銀座を進むと、「しもふり」のアーチが見えてきます。北区の谷田川に関する資料には、谷田川の暗渠の上に染井銀座や霜降銀座が形成されたと明記されています。

霜降銀座を進み、三叉路まで来たら右へ進みます。左方向は大通りへつながっています。
霜降銀座を進み、三叉路まで来たら右へ進みます。左方向は大通りへつながっています。

霜降橋交差点から区境へ|資料で異なるさつき通り周辺の旧流路

商店街を抜け、霜降橋交差点に着きます。川や橋そのものは見えませんが、現地には「霜降橋」という交差点名が残っています。

横断歩道を渡り、北区の西ヶ原・中里と豊島区駒込の区境付近を進みます。北区の資料では、谷田川は豊島区駒込と北区西ヶ原の区境を流れていたとされています。

横断歩道を渡った先から、北区の西ケ原・中里と、豊島区駒込の区境付近を進みます。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
横断歩道を渡った先から、北区の西ケ原・中里と、豊島区駒込の区境付近を進みます。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。

道を進むと右手に駒込さつき通りがあります。さつき通り周辺の旧流路は、参照した複数の流路資料で描き方が異なり、一本に確定することはできません。

右手に駒込さつき通りがあります。今回はさつき通りへ入らず、そのまま中里方面へ進みます。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
右手に駒込さつき通りがあります。今回はさつき通りへ入らず、そのまま中里方面へ進みます。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。

中里用水ガード|ガード下の構造物

さつき通りには入らず中里方面へ進み、JR山手線の高架下にある中里用水ガードをくぐります。中里用水ガードの南側に出ると、古い欄干状の構造物が残っています。この構造物の用途や由来は確定していません。

ガードを抜けて南側へ。この付近には、古い欄干状の構造物があります。欄干の前は撤去自転車の置き場になっていることがあり、見落としやすい場所です。
ガードを抜けて南側へ。この付近には、古い欄干状の構造物があります。欄干の前は撤去自転車の置き場になっていることがあり、見落としやすい場所です。

さらに進んで中里交番前交差点を渡り、田端のエリアへ入ります。

コラム|谷田川は街の境界にもなった

北区は、谷田川が豊島区駒込と北区西ケ原の区境を流れていたと明記しています。台東区は、根津谷の中心を流れる旧藍染川が文京区との境界になっていると説明しています。現在の複雑な区境を歩く面白さにもつなげられます。

コラム|駒込さつき通り、本当にここが川だったのか?

駒込さつき通り周辺の旧流路は、資料によって描き方が異なります。ある資料では、さつき通り側や一本東側の道など、流路の描き方が複数整理されています。現地を歩いて確認しても、旧流路を一本の道に確定することはできません。

第3章 田端の街を歩く|野菜の洗い場と移設された谷田橋

田端へ|田端不動尊と文化人たちの記憶

中里交番前交差点を渡り、田端へ入ります。道を進むと「田端銀座前」交差点に着きますが、ここは田端銀座商店街そのものではありません。さらに進むと、実際の田端銀座商店街を横断します。

実際の田端銀座商店街と交差します。商店街には入らず、そのまま横断します。
実際の田端銀座商店街と交差します。商店街には入らず、そのまま横断します。

商店街を越えて進むと、左手に田端不動尊があります。田端不動尊について紹介する資料によれば、田端不動尊はもとは不動坂下にあったものの、鉄道敷設や谷田川の改修に伴い、何度か移転して現在地へ遷座しました。

田端銀座を越えて進むと、左手に田端不動尊があります。そのまま道なりに進みます。
田端銀座を越えて進むと、左手に田端不動尊があります。そのまま道なりに進みます。

さらに進むと、左手の田端区民センター前に「小杉放庵旧居跡」の案内板があります。案内板には、周辺にゆかりのある文化人として岡倉天心や萩原朔太郎らが紹介され、小杉放庵が芥川龍之介ら文士とも交流していたことが記されています。染井霊園の案内図にも登場した岡倉天心の名前が、田端でも再び現れます。

左手に田端区民センターがあります。ここには「小杉放庵旧居跡」の案内板があります。
左手に田端区民センターがあります。ここには「小杉放庵旧居跡」の案内板があります。

「谷田川通り」と田端水神稲荷神社

同じ田端区民センター付近には、北区教育委員会の「谷田川通り」案内板があります。案内板には、この通りが谷田川(藍染川)が暗渠となってできた通りであることや、川に沿って詩人や画家が住んでいたことが記されています。

田端区民センター付近には、北区教育委員会による「谷田川通り」の案内板があります。谷田川が暗渠となった現在の通りであることや、かつて谷田橋があったことなどが記されています。
田端区民センター付近には、北区教育委員会による「谷田川通り」の案内板があります。谷田川が暗渠となった現在の通りであることや、かつて谷田橋があったことなどが記されています。

そこから進むと、左手に田端水神稲荷神社があります。田端水神稲荷神社について紹介する資料によれば、田端水神稲荷神社の前を谷田川が流れており、稲荷の前には野菜の洗い場があったと記されています。

田端区民センターからさらに進むと、左手に田端水神稲荷神社があります。今回調べてきた「野菜の洗い場」と谷田川との関係を紹介できる地点です。
田端区民センターからさらに進むと、左手に田端水神稲荷神社があります。今回調べてきた「野菜の洗い場」と谷田川との関係を紹介できる地点です。

谷田橋交差点から寄り道|田端八幡神社へ

谷田橋交差点まで進みます。ここから少し本線を外れると、田端八幡神社があります。谷田川に架かっていた谷田橋は、この神社の一の鳥居前へ移されています。

一の鳥居付近には、谷田川の暗渠化に伴って移設された谷田橋本体とされる石橋があります。
一の鳥居付近には、谷田川の暗渠化に伴って移設された谷田橋本体とされる石橋があります。

区境を越えて谷中よみせ通りへ

本線に戻り、先へ進みます。ルートは北区田端から、文京区千駄木、荒川区西日暮里、台東区谷中の境界付近をまたぎながら進みます。

谷田橋付近から先へ進むと、行政区が細かく切り替わる区間に入ります。北区田端から文京区千駄木付近を経て、荒川区西日暮里方面へ進みます。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
谷田橋付近から先へ進むと、行政区が細かく切り替わる区間に入ります。北区田端から文京区千駄木付近を経て、荒川区西日暮里方面へ進みます。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
さらに進むと、荒川区から、文京区千駄木と台東区谷中が接する付近へ入ります。ここでも区境をまたぎながら進む形になります。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
さらに進むと、荒川区から、文京区千駄木と台東区谷中が接する付近へ入ります。ここでも区境をまたぎながら進む形になります。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。

最後に道灌山通りを渡ります。正面に商店街の入口が見え、ここから谷中よみせ通りへ入ります。

道灌山通りの横断歩道を渡ります。正面に商店街の入口が見え、ここから谷中よみせ通りへ入ります。
道灌山通りの横断歩道を渡ります。正面に商店街の入口が見え、ここから谷中よみせ通りへ入ります。

コラム|田端水神稲荷と野菜の洗い場

田端水神稲荷神社について紹介する資料によれば、田端水神稲荷神社前に野菜の洗い場があったと記録されています。さらに、ミツカン水の文化センターが紹介する1902〜03年頃の写真には、田畑や橋、野菜の洗い場が写っています。現在は川を見ることはできませんが、写真資料から当時の谷田川周辺の様子を確認できます。

寄り道|田端八幡神社に移された谷田橋

田端八幡神社の案内板には、一の鳥居手前に石橋が埋められており、それは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のため現在地へ移されたと記されています。一の鳥居手前で、その石橋を確認できます。

境内入口には北区教育委員会の案内板があります。神社の由緒とともに、境内の石橋についても説明されています。
境内入口には北区教育委員会の案内板があります。神社の由緒とともに、境内の石橋についても説明されています。

第4章 谷中よみせ通りを歩く|暗渠上の商店街とリボン工場跡

よみせ通りと延命地蔵尊|暗渠上の商店街

道灌山通りを渡り、「よみせ通り」の北ゲートから商店街を南へ進みます。商店街を進むと、右手に延命地蔵尊があります。
現地の「よみせ通りのいわれ」案内板には、この通りが藍染川の暗渠上にできたことが記されています。また、延命地蔵尊の案内板によれば、この地蔵尊は昭和8年に長野県から分霊を迎えて安置されたとのことです。

商店街を進むと、右手に小さなお堂の延命地蔵尊があります。赤い「延命地蔵尊」の幟が目印です。
商店街を進むと、右手に小さなお堂の延命地蔵尊があります。赤い「延命地蔵尊」の幟が目印です。
よみせ通り延命地蔵尊の案内板もあり、地蔵尊の由来や地域との関わりが記されています。
よみせ通り延命地蔵尊の案内板もあり、地蔵尊の由来や地域との関わりが記されています。

寄り道|谷中銀座商店街

よみせ通りをさらに進むと、左手に谷中銀座商店街の西側入口が現れます。谷中銀座商店街の公式HPによれば、この商店街は昭和20年頃に自然発生的に生まれたとされています。ここから西ゲートを通って谷中銀座へ入り、東ゲートの手前を右へ進むと、谷中ほたるさわポケットパークへ寄り道できます。

よみせ通りをさらに進むと、左手に谷中銀座商店街の西側入口が現れます。
西ゲートから商店街へ入り、東ゲート方面へ進みます。東ゲートの少し手前を右へ入ると、谷中ほたるさわポケットパークへ向かえます。
よみせ通りをさらに進むと、左手に谷中銀座商店街の西側入口が現れます。
西ゲートから商店街へ入り、東ゲート方面へ進みます。東ゲートの少し手前を右へ入ると、谷中ほたるさわポケットパークへ向かえます。

国産リボン発祥の地|川沿いの近代産業

よみせ通りへ戻って南へ進むと、左手に「国産リボン発祥の地(千代田リボン製織所跡)」の案内板があります。案内板には、1894年(明治27年)に藍染川(谷田川)のほとりにリボン工場が設立され、日本で初めて西洋式リボンが生産されたと記されています。
さらに、調査資料『東京台東区谷中の細幅織物(リボン)産業関連資料調査』によると、昭和初めに暗渠となるまで川が流れていたこの付近には、明治・大正期にリボンやネクタイ、染物などの工場が多くありました。

よみせ通りを南へ進むと、左手に「国産リボン発祥の地(千代田リボン製織所跡)」の案内板があります。1894年に藍染川のほとりでリボン工場が設立され、日本で初めて西洋式リボンが生産されたことが記されています。
よみせ通りを南へ進むと、左手に「国産リボン発祥の地(千代田リボン製織所跡)」の案内板があります。1894年に藍染川のほとりでリボン工場が設立され、日本で初めて西洋式リボンが生産されたことが記されています。

柳通りとの交差点|枇杷橋跡と蛇行する流路

よみせ通りを直進し、柳通りと交わる交差点に着きます。交差点付近には「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」の案内板があります。
現地の案内板では、区境を蛇行する道路を藍染川の流路と説明しています。
また、この付近には藍染川に架かる橋があり、複数の呼び名が記録されています。写真の左端には、ここから次の区間へと続く「へび道」の入口が見えています。

正面に枇杷橋跡が見える交差点に着きます。横切る道路は柳通りです。左へ行くと三崎坂・谷中霊園方面、右へ行くと不忍通り・団子坂方面です。写真左端には、次の区間へ続くへび道の入口も見えています。
正面に枇杷橋跡が見える交差点に着きます。横切る道路は柳通りです。左へ行くと三崎坂・谷中霊園方面、右へ行くと不忍通り・団子坂方面です。写真左端には、次の区間へ続くへび道の入口も見えています。

コラム|枇杷橋にはいくつもの名前があった?

歴史資料や現地の案内板には、複数の呼称が記録されています。現地の案内板では、「合染橋」「藍染橋」「琵琶の橋(のち琵琶橋)」などと説明されています。

交差点付近にある「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」の案内板
交差点付近にある「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」の案内板

第5章 「蛍沢」の痕跡をたどる|六阿弥陀通りから蛍坂へ

六阿弥陀通りから「蛍沢」へ|ポケットパークの案内板

谷中銀座の東ゲート付近から、ゲート前を横切る六阿弥陀通りを右へ曲がります。住宅や寺院の間を進んでいくと、左手に「谷中ほたるさわポケットパーク」があります。
現地の案内板には、蛍が群れ飛んでいたことから、明治24年までこの辺りが「谷中村 字蛍沢(やなかむら あざ ほたるさわ)」という地名であったと記されています。

道沿い左手にある小さな公園、谷中ほたるさわポケットパーク
道沿い左手にある小さな公園、谷中ほたるさわポケットパーク
案内板には、この辺りが蛍の群れ飛ぶ場所だったことから、明治24年まで「谷中村 字蛍沢」と呼ばれていたことが記されています。
案内板には、この辺りが蛍の群れ飛ぶ場所だったことから、明治24年まで「谷中村 字蛍沢」と呼ばれていたことが記されています。

長明寺から宗林寺へ|現在も残る「蛍沢」の名

さらに六阿弥陀通りを進むと、左手に長明寺があります。山門には「ほたるさわ」の名が掲げられています。長明寺の資料によれば、江戸時代には山内に旧蛍沢長明寺の四院を有しており、現在でも「蛍沢」の通称が残されていると記されています。
続いて右手に宗林寺の山門が現れます。門前には「ほたる沢 はぎ寺」と刻まれた石柱があります。七面坂には荒川区教育委員会の案内板があります。一方、台東区側にも案内板が設置されていましたが、現在は新築工事に伴って撤去されています。2026年10月の現地確認では、台東区側の案内板を見ることはできませんでした。かつて設置されていた台東区教育委員会の案内板によれば、宗林寺周辺が蛍沢と呼ばれ蛍の名所であったことや、萩が多かったため「萩寺」と呼ばれたことが記されています。

六阿弥陀通りをさらに進むと、左手に長明寺があります。山門には「ほたるさわ」の名が掲げられています。
六阿弥陀通りをさらに進むと、左手に長明寺があります。山門には「ほたるさわ」の名が掲げられています。
さらに進むと、今度は右手に宗林寺の山門が現れます。
さらに進むと、今度は右手に宗林寺の山門が現れます。
山門付近には「ほたる沢 はぎ寺」と刻まれた石柱があります。ポケットパークだけでなく、寺院にも現在まで「ほたるさわ」の名が残っていることを現地で確認できます。
山門付近には「ほたる沢 はぎ寺」と刻まれた石柱があります。ポケットパークだけでなく、寺院にも現在まで「ほたるさわ」の名が残っていることを現地で確認できます。

岡倉天心記念公園から蛍坂へ|中坂という別名

宗林寺から進むと、左手に岡倉天心記念公園があります。染井霊園、田端でも名前が登場した岡倉天心ゆかりの場所が、ここ谷中にもあります。案内板には、この場所が岡倉天心旧宅および旧前期日本美術院跡であることが記されています。
公園を過ぎた次の角を左へ曲がり、細い道を突き当たりまで進んで右を見ると、上り坂になっています。ここが蛍坂です。坂の下の案内柱には、江戸時代に坂下の宗林寺付近が蛍沢と呼ばれる蛍の名所であったことや、三崎坂と七面坂の中間にあるため『御府内備考』で「中坂」と記されていることが説明されています。

左手に岡倉天心記念公園があります。園内には岡倉天心旧宅・旧前期日本美術院跡の案内板もあります。
左手に岡倉天心記念公園があります。園内には岡倉天心旧宅・旧前期日本美術院跡の案内板もあります。
蛍坂の下に案内柱があります。案内には、江戸時代に宗林寺付近が「蛍沢」と呼ばれる蛍の名所だったこと、「御府内備考」にも宗林寺周辺を蛍沢と記していること、さらに中坂が蛍坂の別名であったことなどが記されています。
蛍坂の下に案内柱があります。案内には、江戸時代に宗林寺付近が「蛍沢」と呼ばれる蛍の名所だったこと、「御府内備考」にも宗林寺周辺を蛍沢と記していること、さらに中坂が蛍坂の別名であったことなどが記されています。

コラム|藍染川は「蜆川」「蛍川」とも呼ばれた

台東区立中央図書館のレファレンス回答には、藍染川はシジミがいて蛍の名所だったことから、「蜆川」や「蛍川」とも呼ばれたとする記録があります。


第6章 『三四郎』と『雁』の舞台を歩く|団子坂から不忍池へ

この章では、小説の舞台とされる場所を現在の街でたどります。ただし、小説には創作や脚色が含まれる可能性があるため、作品中の風景や道順を史実として再現するものではありません。

『三四郎』|団子坂の菊人形と石橋

団子坂を下ります。現地の「団子坂」案内板には、幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並んだことや、夏目漱石らが居住していたことが記されています。夏目漱石の『三四郎』の作中にも、一行が菊人形見物をする場面が描かれています。

団子坂の案内板があります。団子坂には「潮見坂」「千駄木坂」「七面坂」という別名があり、幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並んだことも紹介されています。
団子坂の案内板があります。団子坂には「潮見坂」「千駄木坂」「七面坂」という別名があり、幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並んだことも紹介されています。

坂を下りきった団子坂下交差点から不忍通りを横断し、谷中方向へ柳通りを進みます。進んだ先には、第4章でも訪れた「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」の案内板があります。『三四郎』の作中には主人公たちが石橋を渡る場面があり、現在の枇杷橋跡をその石橋とみる解釈があります。

ただし、『三四郎』の作品本文には「藍染川」や「枇杷橋」という名称は明記されていません。作中では、二人が石橋を渡って左へ折れたあと、三四郎が川の流れを眺め、川上で百姓が大根を洗っていることに気づく場面へと続きます。後世の資料では、この方向を現在のよみせ通り方面とみる解釈がありますが、作品本文から詳細な道順を確定することはできません。

『雁』|無縁坂から不忍池の北側へ

続いて無縁坂へ移動し、坂を下ります。右手の「無縁坂」案内板には、森鷗外『雁』の主人公の散歩道として親しまれる坂であることや、作中の「無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って」という一節が紹介されています。『三四郎』では川名が書かれていないのに対し、『雁』では藍染川の名が直接登場します。

無縁坂の案内板には、『雁』の一節が引用され、「藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく」と紹介されています。
無縁坂の案内板には、『雁』の一節が引用され、「藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく」と紹介されています。

無縁坂から不忍池西交差点へ出て、上野恩賜公園へ入ります。現在の不忍池沿いを歩き、いったん公園外へ出て不忍通りを北へ進み、右手の上野動物園・池之端門から入園します。『雁』では、主人公の岡田が不忍池の北側を回って上野の山へ向かう散歩道が描かれています。現在の地図では、不忍池の北側に上野動物園西園の鵜の池があります。

コラム|文学の中の藍染川

文京区は、藍染川が夏目漱石の『三四郎』や森鷗外の『雁』に登場すると紹介しています。現代俳句協会の記事では、『三四郎』の石橋を枇杷橋とみる解釈が紹介されています。


第7章 「へび道」を歩く|藍染町と染物文化の痕跡

枇杷橋跡から「へび道」へ|法住寺跡と妙林寺跡

枇杷橋跡の交差点付近にある「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」案内板には、文京区と台東区の境の蛇行する道路が、現在暗渠となっている藍染川の流路であることが記されています。この蛇行する区間は、一般に「へび道」と呼ばれています。
柳通りを横断し、へび道へ進みます。資料によれば、この付近にはかつて法住寺と妙林寺があり、両寺の間には藍染川が流れていました。また、妙林寺周辺にも「蛍沢」と呼ばれた場所があり、妙林寺には「蛍沢之池」があったとする記録があります。

進行方向に対して左手が法住寺跡、右手が妙林寺跡にあたる場所を通ります。現在は寺院そのものが残る場所ではなく、旧跡として位置を確認する区間です。
進行方向に対して左手が法住寺跡、右手が妙林寺跡にあたる場所を通ります。現在は寺院そのものが残る場所ではなく、旧跡として位置を確認する区間です。

寄り道|藍染大通りと「旧 根津藍染町」

へび道をそのまま南へ進み、藍染大通りとの交差点に出ます。ここでいったん本線を外れ、藍染大通りへ寄り道します。
通りを進むと、左手に「旧 根津藍染町」の案内板があります。案内板には、明治5年に町ができ、藍染川に沿っていたため「根津藍染町」と名付けられたと記されています。また、藍染川という川名の由来については、川筋に染物屋があり、川の色が藍色に染まっていたためとする説など、複数の説が紹介されています。

藍染大通りを進むと、左手に「旧 根津藍染町」の案内板があります。
藍染大通りを進むと、左手に「旧 根津藍染町」の案内板があります。

本線へ戻る|根津丁子屋と川の利用

不忍通り付近まで進んだ後、本線のへび道へ戻り、再び南へ進みます。右手に「根津 丁子屋」があります。根津 丁子屋は1895年創業の染物屋です。資料によれば、この界隈では染物や洗張の仕事に川の水が使われ、布をすすぐ場として利用されていました。

へび道を再び南へ進むと、右手に染物・洗張の「根津 丁子屋」があります。
へび道を再び南へ進むと、右手に染物・洗張の「根津 丁子屋」があります。

言問通りを越えて|移り変わる区境

さらに進み、三浦坂へ続く通りとの交差点を直進して、言問通りを横断します。
右手の文京区側は千駄木から根津へ、左手の台東区側は言問通りを越えると谷中から池之端へと変わります。さらに南へ進んで横道を一つ渡ると道幅が狭くなり、やがて横道に突き当たります。

へび道を進み、蛇行区間を抜けると、右手の文京区側は千駄木から根津へ変わります。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
へび道を進み、蛇行区間を抜けると、右手の文京区側は千駄木から根津へ変わります。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
言問通りを越えて進むと、左手の台東区側は谷中から池之端へ入ります。右手は引き続き文京区根津です。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
言問通りを越えて進むと、左手の台東区側は谷中から池之端へ入ります。右手は引き続き文京区根津です。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
細い道を進むと横道に突き当たります。そのまま直進することはできないため、ここから少し迂回します。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。
細い道を進むと横道に突き当たります。そのまま直進することはできないため、ここから少し迂回します。
なお、写真上の緑色の線は、位置関係をわかりやすくするために、私が道路の中央付近を目安に引いたものです。正確な区境を示すものではありませんので、あくまで参考としてご覧ください。

コラム|藍染大通りに残る「藍染町」

文京区によれば、明治5年に川沿いの町が藍染川にちなんで『藍染』と名付けられたと伝えられています。現在も藍染町会の名称が残っています。現地にある案内板で「藍染町」という名前を確認できます。藍染大通りという名前から旧流路を連想しますが、文京区の資料で藍染川跡として紹介されているのは「へび道」です。


第8章 忍川の痕跡と三橋遺構|不忍池と辯天堂へ

旧流路から鵜の池へ

前章の終点から、突き当たりの横道を西へ進み、児童遊園の手前で左折して南へ向かいます。不忍通りの忍岡小学校入口交差点へ出た後、上野動物園の池之端門から園内に入ります。かつての流路はこの付近から、現在の不忍池の北側にあたる鵜の池へとつながっていたと考えられます。

上野動物園西園に入り、不忍池の鵜の池を確認します。かつての流れがこの付近へつながっていたと考えられます。
上野動物園西園に入り、不忍池の鵜の池を確認します。かつての流れがこの付近へつながっていたと考えられます。

花見橋・中橋跡と横山大観旧宅

忍岡小学校入口交差点へ戻り、不忍通りを南下します。上野警察署池之端交番前付近は、かつての花見橋跡とされています。さらに南へ進むと右手に「横山大観旧宅及び庭園」があり、案内板には、大観がこの地で暮らし、空襲による焼失後、昭和29年に再建されたことが記されています。その先の不忍池西交差点の横断歩道付近が、中橋跡とされる場所です。

上野警察署池之端交番前の横断歩道付近は、かつての花見橋跡とされる場所です。
上野警察署池之端交番前の横断歩道付近は、かつての花見橋跡とされる場所です。
案内板には、横山大観がこの地で暮らし、創作活動を行った歴史などが紹介されています。
案内板には、横山大観がこの地で暮らし、創作活動を行った歴史などが紹介されています。
不忍池西交差点の横断歩道付近は、かつての中橋跡とされる場所です。
不忍池西交差点の横断歩道付近は、かつての中橋跡とされる場所です。

雪見橋と龍門橋|橋名を伝える石碑

池之端一丁目交差点を東へ進むと、上野公園バス停手前の植え込みに「雪見」の文字が残る石碑の一部があります。そのまま中央通りの手前で左へ曲がり、不忍通りの反対側から上野恩賜公園へ入ると、自転車置き場付近に「龍門橋」と刻まれた石碑があります。いずれも、かつてこの周辺にあった橋の名を現在に伝える石碑です。

石碑は一部が欠けていますが、刻まれた文字から「雪見橋」の名残を確認できます。
石碑は一部が欠けていますが、刻まれた文字から「雪見橋」の名残を確認できます。
園内へ入ってすぐ左手、自転車置き場付近に龍門橋の石碑があります。 忍川や不忍池周辺にかつて橋が点在していたことを伝える痕跡の一つです。
園内へ入ってすぐ左手、自転車置き場付近に龍門橋の石碑があります。 忍川や不忍池周辺にかつて橋が点在していたことを伝える痕跡の一つです。

上野広小路遺跡三橋遺構|発掘された忍川

したまちミュージアムの手前に、「上野広小路遺跡三橋遺構」の案内板があります。
案内板によると、江戸時代の忍川には三つの橋があり、中央の橋は「御橋」とも呼ばれ、将軍と寛永寺の山主だけが渡ることのできる橋でした。発掘調査では、高さ約3.4メートル、間知石を8〜9段積んだ石組水路や木製の底板が出土し、底板からは当時の寛永通宝が張り付いた状態で見つかっています。現在は地上から姿を消した忍川の規模を、発掘資料から具体的に確認することができます。

したまちミュージアムの手前には、上野広小路遺跡三橋遺構について解説した案内板があります。
したまちミュージアムの手前には、上野広小路遺跡三橋遺構について解説した案内板があります。
案内板によると、江戸時代、不忍池の南東角から東へ忍川が流れ、その川には寛永寺へ参詣するための三つの橋が架けられていました。 中央の大橋と左右の小橋を合わせて、「三橋」と呼ばれていたとされています。
案内板によると、江戸時代、不忍池の南東角から東へ忍川が流れ、その川には寛永寺へ参詣するための三つの橋が架けられていました。 中央の大橋と左右の小橋を合わせて、「三橋」と呼ばれていたとされています。

江戸時代のこの一帯は、現在の上野恩賜公園とは大きく異なり、東叡山寛永寺の広大な境内でした。 三橋は、将軍や寛永寺への参詣者が忍川を渡る重要な場所だったことが分かります。
寛永寺へ向かって左側の橋は、谷中方面へ続くことから「谷中橋」と呼ばれていたと説明されています。

終点|不忍池辯天堂と大黒堂

三橋遺構を確認した後、不忍池の東側に沿って北へ進み、天龍橋を渡って不忍池の中之島へ向かいます。
辯天堂・大黒堂の現地案内板によると、寛永寺創建時に天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、中之島に大弁才天を勧請して弁天堂が建てられました。当初は小舟で渡っていましたが、寛文年間に石橋が架けられました。近くの大黒堂には豊臣秀吉が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られています。

天龍橋を渡ります。 不忍池の中を横切る現在の橋を進み、次の地点へ向かいます。
天龍橋を渡ります。 不忍池の中を横切る現在の橋を進み、次の地点へ向かいます。
天龍橋を渡った先にある、不忍池辯天堂へ向かいます。 不忍池の中之島に建つお堂で、現在も多くの参拝者が訪れています。
天龍橋を渡った先にある、不忍池辯天堂へ向かいます。 不忍池の中之島に建つお堂で、現在も多くの参拝者が訪れています。
案内板によると、寛永2年(1625)、天海僧正が上野に東叡山寛永寺を創建した際、不忍池を琵琶湖になぞらえ、中之島を竹生島に見立てたとされています。 その後、竹生島の宝厳寺から大弁才天を勧請して弁天堂が建立されました。 当初は島へ小舟で渡っていましたが、寛文年間に石橋が架けられ、自由に往来できるようになったと記されています。現在の弁天堂は、戦災による焼失後、昭和33年(1958)に再建されたものです。
案内板によると、寛永2年(1625)、天海僧正が上野に東叡山寛永寺を創建した際、不忍池を琵琶湖になぞらえ、中之島を竹生島に見立てたとされています。 その後、竹生島の宝厳寺から大弁才天を勧請して弁天堂が建立されました。 当初は島へ小舟で渡っていましたが、寛文年間に石橋が架けられ、自由に往来できるようになったと記されています。現在の弁天堂は、戦災による焼失後、昭和33年(1958)に再建されたものです。
弁天堂の近くには、大黒堂があります。 正面には「大黒天」の提灯が掲げられ、弁天堂とはまた異なる落ち着いた佇まいを見せています。
弁天堂の近くには、大黒堂があります。 正面には「大黒天」の提灯が掲げられ、弁天堂とはまた異なる落ち着いた佇まいを見せています。
案内板には、この大黒天が豊臣秀吉が大切に護持したと伝えられる大黒天であることなどが紹介されています。 大黒天は福徳や商売繁盛、開運招福などの信仰を集め、現在も不忍池辯天堂とともに参拝されています。
案内板には、この大黒天が豊臣秀吉が大切に護持したと伝えられる大黒天であることなどが紹介されています。 大黒天は福徳や商売繁盛、開運招福などの信仰を集め、現在も不忍池辯天堂とともに参拝されています。

コラム|藍染川は本当に不忍池へ流れ込んだのか

文京区は、藍染川が不忍池に注いだと説明しています。台東区によれば、明治17年の競馬場建設に伴う埋め立てで現在の不忍池に近い形ができました。台東区立中央図書館のレファレンス回答では、明治20年の地図に池外側の水路状の溝が確認されています。明治44年の地図には西・南側の水路と橋の印が確認されています。


第9章 地下に残る水の道|下水道幹線と水再生センター

ここからは旧河川そのものではなく、現在の地下インフラを見ます。

これまでの章では、地上から姿を消した谷田川・藍染川の痕跡を追ってきました。本章では、東京都下水道局の施設平面図(公道下の下水道管の位置・深さ・管径などを示す1/500の下水道台帳)などの資料を参照し、かつての流路周辺の地下施設をたどります。

谷田川幹線の地上ルートと地下

染井銀座から霜降銀座を抜け、三叉路の左側から大通りへ出て霜降橋交差点へ向かいます。そこから谷田川通りを進み、谷田橋交差点に至る地上ルートを歩きます。施設平面図によれば、この地上ルートに沿うように、地下には「谷田川幹線」が通っています。

第二谷田川幹線の接続

西ヶ原みんなの広場から下瀬坂を下り、ゲーテの小径、不動院、旧古河庭園のそばを経て本郷通りへ進みます。さらに聖学院通り、東中里公園の手前を通り、田端銀座から谷田川通りへ入ります。施設平面図を確認すると、このルートに沿うように地下を「第二谷田川幹線」が通っています。
田端銀座から先も第二谷田川幹線を追うことができ、谷田川通りでは谷田川幹線と近接して進み、道灌山通り付近まで続いています。

五人堀と真島町幹線

枇杷橋跡からへび道を進み、谷中と根津の区界付近で言問通りを右へ曲がり、不忍通りの一本手前の道を南下します。
この道は、江戸期の「五人堀」の流路跡とする資料があります。名称の由来には周辺の五人の武家屋敷にちなむとする説があり、藍染川下流域の分流路として水害時の排水にも関わったと考える資料があります。
施設平面図をたどると、へび道方面から続く真島町幹線には、雨水系統と汚水系統の両方が確認できます。春日通り付近で湯島ポンプ所方面と万世橋方面へ分かれますが、万世橋方面のルートは途中から雨水系統のみとなり、その先は神田川方面へ続いています。

藍染川幹線から三河島水再生センターへ

道灌山通りから、藍染川西通りへと進みます。施設平面図によれば、この付近の地下には「藍染川幹線」が通っています。
荒川区立図書館の資料では、この地域を流れていた排水路を「藍染川(谷田川排水路)」と表記しています。谷田川の氾濫対策として整備された排水路で、道灌山から三河島方面へ向かう流れでした。現在の藍染川幹線とは区別して考える必要がありますが、この地域に「藍染川」の名が引き継がれていることが分かります。
東京都下水道局の事業年報からは、藍染川幹線が三河島水再生センターへ流入していることを確認できます。

コラム:現在の下水道施設に残る「谷田川」「藍染川」の名称

東京都の資料には、「谷田川幹線」「藍染川幹線」「第二谷田川幹線」という名称が残っています。第二谷田川幹線は増補幹線として整備され、藍染川幹線雨水渠と接続しています。西ケ原周辺では、第二谷田川幹線が浸水対策に使われています。


エピローグ 水の旅は不忍池で終わらなかった

忍川の痕跡|上野三橋町からガード下へ

上野恩賜公園内の「龍門橋」の碑がある出口から不忍通りへ進み、上野四丁目交差点で中央通りを横断します。通り沿いにある「旧上野三橋町」の案内板には、不忍池から流れる忍川に架かっていた三つの橋が町名の由来であると記されています。
アメ横センタービルを抜け、アメ横通りを南下して横道を左へ曲がり、JR山手線のガード下へ向かいます。周辺には「三枚橋横丁」の名があり、JRのガード下には現在も「忍川橋架道橋」という名称が残っています。ガードを抜けてすぐ右、続いて左へと曲がり、東へ進んで上野御徒町中央通りを横断します。

上野四丁目交差点まで進み、左手の横断歩道を使って中央通りを渡ります。
上野四丁目交差点まで進み、左手の横断歩道を使って中央通りを渡ります。
中央通り沿いにある「旧上野三橋町」の案内板には、不忍池から流れ出る忍川に三つの橋が並んで架けられていたことが町名の由来として記されています。
中央通り沿いにある「旧上野三橋町」の案内板には、不忍池から流れ出る忍川に三つの橋が並んで架けられていたことが町名の由来として記されています。
右手の「三枚橋横丁」には、現在も横丁名に「三枚橋」の名が残っています。
右手の「三枚橋横丁」には、現在も横丁名に「三枚橋」の名が残っています。
左手のJRのガード下へ向かいます。
左手のJRのガード下へ向かいます。
ガード下には「忍川橋架道橋」と記された表示があります。忍川の名が鉄道施設の名称として現在も残っています。
ガード下には「忍川橋架道橋」と記された表示があります。忍川の名が鉄道施設の名称として現在も残っています。

姿を変える水路|大名屋敷と西町太郎稲荷神社

東へ進んで昭和通りに突き当たります。この付近が三枚橋跡とされています。北へ迂回して横断歩道を渡り、首都高速の高架下を抜けて元の順路へ戻ります。
ここから立花左近将監の江戸屋敷跡地の西側を北へ進むと、丁字路の右手に西町太郎稲荷神社があります。現地の案内板では「江戸上屋敷」と記される一方、「TAITOおでかけなび」では、万治年間に設けられた「江戸中屋敷」の跡地と紹介されています。いずれの資料でも、西町太郎稲荷神社が立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として建立されたことが紹介されています。丁字路へ戻り、旧屋敷地の北側を東へ進んで白鴎高校西交差点で清洲橋通りを横断すると、元浅草遺跡(酒井大学頭上屋敷跡)へ至ります。

東へ進むと昭和通りに突き当たります。ここは三枚橋跡付近とされていますが、この場所では昭和通りを横断できないため、迂回します。
東へ進むと昭和通りに突き当たります。ここは三枚橋跡付近とされていますが、この場所では昭和通りを横断できないため、迂回します。
順路から少し寄り道して、西町太郎稲荷神社へ向かいます。小さな境内に社殿が残っています。
順路から少し寄り道して、西町太郎稲荷神社へ向かいます。小さな境内に社殿が残っています。
境内脇の案内板で、西町太郎稲荷神社の由来を確認します。立花家の江戸屋敷との関係を伝えています。
境内脇の案内板で、西町太郎稲荷神社の由来を確認します。立花家の江戸屋敷との関係を伝えています。
清洲橋通りを越えると、右手に都立白鴎高校があります。この一帯は「元浅草遺跡」で、江戸時代には出羽松山藩・酒井大学頭の上屋敷が置かれていた場所です。
清洲橋通りを越えると、右手に都立白鴎高校があります。この一帯は「元浅草遺跡」で、江戸時代には出羽松山藩・酒井大学頭の上屋敷が置かれていた場所です。

堀と水運|三味線堀と佐竹家上屋敷

左衛門橋通りを南下して春日通りを横断し、小島二丁目交番の先にある交差点を東へ進みます。如意輪観音の先を左折して南下し、小島公園を経て蔵前小学校通りを西へ。台東小島アパートの周辺は三味線堀の跡地です。以前ここには「三味線堀跡」の案内板が設置されていましたが、現在は台東小島アパート周辺の工事に伴って撤去されています。かつて設置されていた案内板によれば、寛永7年に鳥越川を広げて造られ、不忍池から忍川・三味線堀を経て隅田川へ通じており、物資を運ぶ船の船着場がありました。
清洲橋通りを挟んだ佐竹商店街の南口には、「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡」の案内板が設置されていましたが、周辺の工事に伴って撤去されています。かつて設置されていた案内板には、この一帯が秋田藩佐竹氏の上屋敷跡であることが記されていました。旧堀跡に沿って西へ進み、竹町公園の脇を抜けた先にある佐竹秋葉神社は、その上屋敷の守護神として火伏せの信仰を集めています。

以前「三味線堀跡」の案内板が設置されていました。現在は台東小島アパート周辺の工事に伴って案内板が撤去されており、現地では案内板を確認できない状態です。
以前「三味線堀跡」の案内板が設置されていました。現在は台東小島アパート周辺の工事に伴って案内板が撤去されており、現地では案内板を確認できない状態です。
佐竹商店街、かつて「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡」の案内板が設置されていました。
清洲橋通りの歩道を北へ進み、佐竹秋葉神社へ向かいます。
佐竹商店街、かつて「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡」の案内板が設置されていました。
清洲橋通りの歩道を北へ進み、佐竹秋葉神社へ向かいます。
小さな「佐竹秋葉神社」があります。
小さな「佐竹秋葉神社」があります。
佐竹秋葉神社の案内板によると、秋葉神社は火伏せ・防火の神として信仰され、当地の歴史とも深く結びついています。
佐竹秋葉神社の案内板によると、秋葉神社は火伏せ・防火の神として信仰され、当地の歴史とも深く結びついています。

旧鳥越川を追う|甚内神社と甚内橋遺跡

佐竹通り南口交差点付近へ戻り、清洲橋通りを南下して蔵前橋通りへ出ます。交差点を渡って東へ進み、鳥越東交差点を右折、すぐ左折して左衛門橋通りを越えると、甚内神社があります。案内板によれば、瘧(マラリア)に苦しむ人々を救うと誓って処刑された甚内を祀っています。かつて鳥越川に架かっていた橋は「甚内橋」と呼ばれ、現在も「甚内橋遺跡」の石柱が残っています。

ここで少し寄り道して、甚内神社へ立ち寄ります。小さな境内ですが、旧鳥越川を追う今回の散歩では重要な手掛かりとなる場所です。
ここで少し寄り道して、甚内神社へ立ち寄ります。小さな境内ですが、旧鳥越川を追う今回の散歩では重要な手掛かりとなる場所です。
境内脇の案内板には、甚内神社の由来のほか、この付近にかつて「甚内橋」があり、鳥越川に架かっていたことが記されています。
境内脇の案内板には、甚内神社の由来のほか、この付近にかつて「甚内橋」があり、鳥越川に架かっていたことが記されています。
石柱の案内面の碑文には、鳥越川に架かっていた橋で、「甚内橋」と呼ばれていたことが記されています。
石柱の案内面の碑文には、鳥越川に架かっていた橋で、「甚内橋」と呼ばれていたことが記されています。
石柱には「甚内橋遺跡」と刻まれています。暗渠化されて姿を消した旧鳥越川を、現在の街中で直接確認できる貴重な痕跡です。
石柱には「甚内橋遺跡」と刻まれています。暗渠化されて姿を消した旧鳥越川を、現在の街中で直接確認できる貴重な痕跡です。

水の旅の終着点|隅田川と東京スカイツリー

須賀橋交番前交差点で江戸通りを渡り、交番裏手の通りに入り、右へ直進した後、再び左へ進むと建設中の高層建物があるため、柳橋大川端通りへ一度迂回して再び隅田川方向へ向かいます。
正面に水門のような設備が見える地点で、左側の歩行者通路から隅田川テラスの入口へ向かい、階段を上ります。
鳥越川の流路跡を東へたどると、最終的に隅田川へと至ります。不忍池から続いた水の道は、ここで大きな川へと合流していました。
階段を下りて隅田川テラスを南へ進みます。目の前には隅田川が広がり、振り返ると、その向こうに東京スカイツリーが見えます。そして右手には、大きな石を配した植え込みがあります。
ここまで水の道をたどってきたせいでしょうか。私には、この植え込みと石がどこか橋のようにも見えました。
実際に何を表しているのかは分かりません。
この景観には、何か意味があるのでしょうか。

道の先には、建設中の高層マンションが立ちはだかるように見えます。そのまま直進することはできないため、ここから少し迂回します。
道の先には、建設中の高層マンションが立ちはだかるように見えます。そのまま直進することはできないため、ここから少し迂回します。
正面に大きな設備が見えてきます。見た目は水門や排水施設のようですが、写真だけでは設備名までは断定できません。
正面に大きな設備が見えてきます。見た目は水門や排水施設のようですが、写真だけでは設備名までは断定できません。
工事区画の手前で、左側に設けられた「歩行者通路」に入り、「隅田川テラス入口」へ向かいます。
工事区画の手前で、左側に設けられた「歩行者通路」に入り、「隅田川テラス入口」へ向かいます。
階段を上ると視界が開け、目の前に隅田川が広がりますその向こうには東京スカイツリー。
階段を上ると視界が開け、目の前に隅田川が広がりますその向こうには東京スカイツリー。
テラス側へ降りると、先ほど見えていた設備をより近くから確認できます。撮影時には点検・工事作業が行われているように見えます。周辺の雨水排水との関係を考えるうえでも、気になる場所です。
テラス側へ降りると、先ほど見えていた設備をより近くから確認できます。撮影時には点検・工事作業が行われているように見えます。周辺の雨水排水との関係を考えるうえでも、気になる場所です。
先ほど迂回した建設中の高層マンションが大きくそびえています。
先ほど迂回した建設中の高層マンションが大きくそびえています。
右手には植え込みと大きな石が配置されています。どこか橋を意識したようにも見えるデザインですが、写真だけでは橋跡を示すものかどうかまでは断定できません。
右手には植え込みと大きな石が配置されています。どこか橋を意識したようにも見えるデザインですが、写真だけでは橋跡を示すものかどうかまでは断定できません。
そして目の前に広がるのが隅田川です。駒込方面から谷田川・忍川の痕跡をたどり、不忍池の南を抜け、さらに浅草橋方面まで歩いてきた水の旅は、ついにここで大きな川へたどり着きます。
そして目の前に広がるのが隅田川です。駒込方面から谷田川・忍川の痕跡をたどり、不忍池の南を抜け、さらに浅草橋方面まで歩いてきた水の旅は、ついにここで大きな川へたどり着きます。
最後に、隅田川の向こうにそびえる東京スカイツリーを眺めます。
最後に、隅田川の向こうにそびえる東京スカイツリーを眺めます。

参考資料・出典
本記事の執筆にあたり、以下の資料および現地案内板等を参照しました。
旧流路については資料によって経路の解釈が異なる箇所があるため、特定の説に限定せず、現地で確認できる地形・道路・案内板などをあわせて紹介しています。
本記事では、自治体・公的資料だけでなく、旧流路や地域史を扱ったWebサイト、散歩記録、寺社資料なども参照してルートを組み立て、現地案内板・石碑・地形・道路形状などと照らし合わせながら確認しました。